2008年7月9日水曜日

里仁(りじん)第四-九

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子曰、士志於道、而恥惡衣惡食者、未足與議也、

子(し)曰(のたま)わく、士(し)、道に志して、悪衣(あくい)悪食(あくしょく)を恥ずる者は、未だ与(とも)に議(はか)るに足らざるなり。

先生がいわれた、「道を目指す士人でいて粗衣粗食を恥じるような者は、ともに語るに足らない」
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■見栄えや苦しい生活を恥じる者は、大きな志を叶えることはできない。

 「士」とは「さむらい」のこと。並みの人ではちょっとできないようなことをやってのける人。古代中国社会においては統治階層を指し、学問、教養、地位などのある立派な人のことをいう。こういう人で、かつ道を志そうという思いの人が、粗衣粗食を恥じるようでは、交流するに値しないということだ。
 人は、大きな目標があれば、自分の生活の不自由さなどを気にしてはいられない。逆に、贅沢と飽食をしながら、大きな目標を達成したいなどと考えるのは、そもそも甘い考えといえる。その程度の志なら、やってもやらなくても同じこと。二兎を追う者は一兎をも得ず。やはり大きな目標には、何かしらの犠牲が必要なのだ。まして大きな志を持ちながら、ボロを着て粗食に耐えていることを恥じているようでは、それに理解を示している人たちもがっかりすることだろう。
 「武士は食わねど高楊枝」という諺もあるが、そんな見栄も必要ない。正しい道を見出して、それに向かって頑張っている人物なら、身なりや生活水準は第二義的な問題となる。人間が最も輝いて見えるのは、高い理想を求めて一心不乱に活動している姿である。なにもこのことは、若者ばかりに当てはまる教えではない。もっと年をとった人物であっても同様だ。もっとも、「汚い」「むさ苦しい」といった風情では論外であろうが、「清潔」「質素」であれば、なんらその人物の評価を下げるものではない。むしろ、例え金持ちであっても、なんの志も無く、日々怠惰な生活をしていながら、飽食とギンギラの宝飾品で身を飾っている者のほうがよほど卑しく見えるものだ。

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