2008年7月9日水曜日

里仁(りじん)第四-七

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子曰、人之過也、各於其黨、觀過斯知仁矣、

子(し)曰(のたま)わく、人の過ちや、各々(おのおの)其(そ)の党に於(おい)てす。過ちを観て斯(ここ)に仁を知る。

先生がいわれた、「人の過ちというものは、それぞれの人物の種類に応じて犯す。過ちの内容を観れば仁かどうかが分かる」
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■「失敗」や「過失」にこそ、その人の裸の人間性が表われるものと心得よ!

 過ちを犯さない人間は皆無であろう。皆何かしらの失敗の中で生きている。小人は小人なりの過失、また君子でも、君子なりの過失があるはずだ。つまり本人は意識していないにも関わらず、他人から見たら過失であるようなことも多い。また「今」みたら過失だと思っていても、「後」になってみたらそれが「益」となっていた、ということもあろう。またその過失の特性をみても、事の大小だけではなく、その人物の個性に応じてさまざまな種類の過失がある。たとえば、酒好きは酒の場において数々の失敗談がある。女好きといわれる人間は女性関係で失敗することも多い。ギャンブル上の失敗もあるだろうし、言葉足らずの性格には失言で相手を怒らせ喧嘩になったこともあろう。人は、その性格や人間性に応じた過ちをたくさん犯しながら暮らしているのだ。
 しかし、同じ過失や過ち、失敗だとしても、その根底に「仁」則ち「愛」や人を大事に思う気持ちがあって犯したものか、他人に悪意をもって犯したものかを見極める必要があろう。人に善かれと思ってしたことが、かえって人に迷惑をかける場合もある。まあそれはそれで、人間としての未熟さ故の過ちだろうが、そのターゲットとなった被害者にとっては大迷惑なのだ。この項でも言っているように「過ちの内容を観れば…」ということは「検証」する「反省」する、というなのだ。人は他人の過ちを本人より強く意識するものだ。だからこそ、その過ちで自分の人間性を見抜かれることを肝に命じておかねばなるまい。人は、その失敗からも、その人間性を問われる、ということだ。

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