2008年7月9日水曜日

里仁(りじん)第四-八

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子曰、朝聞道、夕死可矣、

子(し)曰(のたま)わく、朝(あした)に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。

先生がいわれた、「朝[正しい真実の]道がきけたら、その晩に死んでもよろしいね」
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■命をかけるくらいの求道精神を持って学べ!

 この項は論語の中でも最も有名な言葉のひとつであろう。人はなぜ学問をするのか。それを考えるとよい。論語の他項にも同じような教えがあるが、立身出世やお金のために学問をするのではあるまい。世の中の真理を極めるため、また人としての正しい生き方や幸福を知るために学問をするのである。それがここで言う「道」であろう。人としての「正しい道」を体得できれば、その晩に死んでもいいとさえ思う。つまりそれくらいの覚悟が必要なのだ。自分の命と引き換えに、正しい道を極めたいと願う。それくらいの決意で生きなさい、ということなのだ。また孔子自身もそのように生きている、ということを弟子たちに語ったのだろう。特に残虐非道を極めた春秋戦国時代に生きていた孔子たちにとっては、その「道」を希求する精神は並外れて強かったのではあるまいか。
 私が敬愛するインドのガンジーの言葉にもこういうものがある。「自分は明日死ぬと思って今日を生きなさい。自分の命は永遠だと思って勉強しなさい」。これこそ日々勉強する者たちの好ましい態度だと思う。現代人は「学ぶ」ということの本質を知らないようだ。学校でも教えていないのではないかと思う。多くの人々は、進学するため、就職するため、出世をするため、高給を得るために勉強をしているのではないか。だから高齢になればなるほど、その学習意欲も無くなっていくのではないだろうか。しかし、世の中の真理を極めたい、人間を知り尽くしたい、といった強い情熱をもって勉強すれば、勉強そのものが楽しくなるはずだ。決して苦労とは思わないはずだ。勉強といってもいろいろある。書物を読む、人の話を聞いたり議論をする、旅をする、音楽を聞く、何かしら創ってみる、書いてみるなど、いろいろある。それが全て勉強である。その目指すべき目標とは「人間の道」を知るためである。

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