2008年7月9日水曜日

八佾(はちいつ)第三-十七

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子貢欲去告朔之餽羊、子曰、賜也、女愛其羊、我愛其禮、

子貢(しこう)、告朔(こくさく)の饋羊(きよう)を去らんと欲す。子(し)曰(のたま)わく、賜(し)や、女(なんじ)は其の羊(ひつじ)を愛(おし)む。我は其の礼を愛む。

子貢が[月ごとの朔(はじめ)を宗廟に報告する]告朔の礼[が魯の国で実際には行なわれず、羊だけが供えられているのをみて、そ]のいけにえの羊をやめようとした。先生はいわれた。「賜よ、お前はその羊を惜しがっているが、私にはその礼が惜しい。[羊だけでも続けていけばまた礼の復活するときもあろう]
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■守るべきものと無くすべきものを、しっかりと見極めよ。

 弟子の子貢が、儀礼のひとつとして行われている羊のいけにえを廃止しようと提案した。孔子は「お前は羊を惜しむようだが、私は儀礼が廃るのを惜しむ」と言った。
 古代中国は、何かにつけ儀式があった。そもそも孔子の哲学は「儀礼を尊び国を治める」というものだから、必然的にこのような判断になる。現代的に言えば「保守的」である。しかしこうも考えられるのではないか。当時の中国が、倫理も何もない下克上の戦国の世だからこそ、儀礼が廃るようなことは決してしなかったのではないだろうか。
 現代社会でも、今一度考えるべきことがある。それは何が何でも新しいもの、新しい制度に寄り掛かって、それが進歩だと思っていることにこそ、危険が潜んでいる、ということだ。その改革や進歩が、人間にとって真に有意義なことであれば問題はない。しかし、目先の目新しさと不見識な解釈だけで、古き良きものまで破壊してはいないだろうか。
 本当の“保守”とは、盲目的に変化を嫌う主義を言うのではない。保守が保守として継続するためには、良いものは残し、悪いものを廃するという哲学なのだ。“伝統”もまたしかり。伝統文化は、たえず見えない部分の革新を取り込み、発展している。つまりはその中にある真理のみを活かし続け、時代にそぐわなくなった部分を変化させて生きているのだ。これは永遠に成長と継続を目指すビジネスにとって、非常に大切な教訓である。新しさだけのビジネスは、必ず行き詰まる。

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