2008年7月9日水曜日

里仁(りじん)第四-四

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子曰、苟志於仁矣、無惡也、

子(し)曰(のたま)わく、苟(いやしく)も仁に志(こころざ)せば、悪(あ)しきこと無きなり。

先生がいわれた、「本当に仁を目指しているのなら、悪いことは無くなるものだ」
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■「我」を無くせ。「仁」を尊ぶ哲学こそが、自分から悪事を遠ざける。

 本当に仁者になることを志しているのであれば、悪いことはしなくなるし、また自分に悪いこともふりかからなくなるものだ。これは処世の哲学として、誠に真理だと思う。反対に、悪いことをしてみたり、悪いことがふりかかったりするのは、ひとえに私利私欲や利己主義でことを為した場合に多い。何ごとも、不幸な事態を招くのは、あまねく人を愛する精神である「仁」ではなく、自分だけを愛したときなのだ。周りを見れば一目瞭然だろう。あなたの職場においても、トラブルメーカーは、いつも「我」が強い人間だろう。おそらく例外はないはずだ。我を通せば、他者は引く。
 私は常々思っていることがある。信じる信じないに関わらず、日本であまねく習俗化している神社信仰の多くが、このことを表わしているのではないかと考えている。これら神社の多くは、ご神体として「鏡」が祭られている。何故なのか。これは何を意味するのか。私なりの解釈としては、「自分の中にこそ神がいる」ということを表わしているのではないか。鏡(かがみ)は、自分自身を映しだす。しかしその中に見える「我(が)」をどう処するかに、人の幸不幸があると考えるのだ。人は「鏡(かがみ)」の中に映し出されたものから「我(が)」を取り除けば、それは即「神(かみ)」となるのである。

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