2008年7月9日水曜日

八佾(はちいつ)第三-十五

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子入大廟、毎事問、或曰、孰謂鄹人之知禮乎、入大廟、毎事問、子聞之曰、是禮也、

子、太廟(たいびょう)に入(い)りて、事毎(ごと)に問う。或るひと曰く、孰(たれ)か鄹人(すうひと)の子(こ)を礼を知ると謂(い)うや、太廟に入りて事毎に問う。子(し)、之を聞きて曰わく、是(こ)れ礼なり。

先生は大廟の中で儀礼を一つ一つ尋ねられた。ある人が「鄹(すう)の役人の子供が礼を知っているなどと誰がいったんだろう、大廟の中で一つ一つ尋ねている。」といったが、先生はそれを聞くと「それ[そのように慎重にすること]が礼なのだ。」といわれた。
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■何ごとにも、初心に還ることを怖がらずに生きよ。

 孔子が大廟の中で儀礼の作法について、いちいち担当の役人に問い質していると、ある人が「孔子は何も知らないではないか」と言った。それを聞いて孔子は、そのように慎重にすることこそが礼なのだと言った。
 この項は、知ったかぶりをせず、相手を立ててこそ、礼にかなう行為であることを教えくれる。人は名が知られていればいるほど、さらりとやり過ごしたいものだが、孔子の考えは違う。慎重に事を為すことを重視する。ビジネスにおける様々な失策も、ひとえにこの精神を無くしたところに発生する。事故報告が上層部に伝わらない。工場の利益優先主義がもたらす商品の欠陥を隠したままそれを販売する。内容表示と違う素材を偽って製造する。などなど、現代社会では様々な“偽装”が蔓延している。そしてそれを誰も正そうとはしない。
 このような社会で、たとえビジネスがうまくいっていたとしても、その利を誇りを持って受け取れるものだろうか。もし最近の日本人が、泥棒行為で得た利益を「それでも良い」と思い始めたのなら、この国は滅び始めている。そこに明るい未来も、豊かな市場も存在しない。

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