2008年7月5日土曜日

為政(いせい)第二-十七

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子曰、由、誨女知之乎、知之爲知之、不知爲不知、是知也、

子(し)曰(のたま)わく、由(ゆう)、女(なんじ)に之を知るを誨(おし)えんか。之を知るを之を知ると為(な)し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。

先生がいわれた、「由よ、お前に知るということを教えようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知るということだ」
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■しったかぶりは、自分の成長を止める。

 由とは孔子の愛弟子で姓名を「仲由」、あざ名を「子路」と言う。論語中によく登場する人物だ。少々がさつだが正義感が強い好漢で、大変孔子が可愛がったという。孔子はその子路に、本当の知るとは熟知しているものを言って、生半可に知っていることを、知っているとは言わないほうが良い、と諭している。いわゆる「知ったかぶり」は恥ずかしいことだと諌めている。少なくとも君子たろうとする者はそのように考えなさい、ということなのだろう。
 現代人は、朝から晩までマスコミ情報(他者からの二次情報)の洪水の中に置かれ、日本の田舎町に住んでいても、地球の裏側のことまで知っている。しかし、それは果たして「知っている」と言えることなのだろうか。孔子が言うのは「知っている」ということ自体の精度を高めよ、ということではなかろうか。中途半端な「知」は、人の判断能力を曇らせる。中途半端な知識をひけらかすくらいなら、「知らない」と言える勇気と節度が欲しいものだ。また「知識」を「知恵」と言えるくらいにまでに昇華さたいものだ。
 そもそも「自分自身のことさえ知らない」というのが人生の本音であろう。まして日々刻々と変化する世界において、他人や他事について、ほんとに「知る」ことはできるのか。本当のところは「知らない」「理解していない」というのがほとんどであろう。例え「知っている」としても、その内容はほんの一部のことだけかもしれない。例えば、企業が顧客やマーケットを本当に熟知しているか。自分は家族の心のうちを知り尽くしているか。自分自身にたえず問えばよい。人間は、答えの無い答えを求めて、生きているのだ。しかし私は、「知っている、と思った瞬間から、その答えを求める道は閉ざされる」ということだけは永遠の真理だ、ということを知っている。

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