2008年7月9日水曜日

八佾(はちいつ)第三-十九

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定公問、君使臣、臣事君、如之何、孔子對曰、君使臣以禮、臣事君以忠、

定公(ていこう)問う、君(きみ)、臣を使い、臣、君に事(つか)うること、之を如何(いか)にせん。孔子対(こた)えて曰わく、君、臣を使うに礼を以(もっ)てし、臣、君に事うるに忠を以てす。

定公が「主君が臣下を使い、臣下が主君に仕えるには、どのようにしたものだろう。」とお訊ねになったので、孔先生は答えられた、「主君が臣下を使うには礼によるべきですし、臣下が主君に仕えるには忠によるべきです。」
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■上下が共に、為すべきことをしなければ、支え合うことはできない。

 この項でも「礼」と「忠」が出てくる。孔子は、主君は臣下に対して「礼」によるべきだし、臣下は主君に対して「忠」によるべきだと言う。「礼」は再三出てきたのでお分かりと思うが、「忠」は「孝」と「恵」とともに、「徳」の基礎である「仁」の一部と解釈するのが分かりやすい。安岡正篤先生の解説によると、忠とは、中(ちゅう)する心であり、「中」は相対するものから次第に統一的なものに進歩向上してゆく働きを言い、忠とはそういう心である、とのことだ。つまり本当の忠は無限の統一・進歩であると言う。辞書によれば、真心を込めてよく務めを果たすこと、君主または国家に対して真心を尽くすこと、とある。正直で表裏が無いことも表わし、特に日本においては、忠義、忠誠と言うように、「孝」とともに武士道の大事な徳目とされていた。
 主君と臣下、現代的に言えば社長と社員、上司と部下とでも言おうか。今でもその関係性は、変わらないのではないだろうか。少なくとも、現代でもサラリーマンは、忠を持って仕事を果たすことを求められている。しかし、上から下への「礼」という視点はどうであろうか。古代中国では、王は臣下に対して、それなりの待遇をその都度していかなければ、臣下が国を出て行くことも罷り通っていたと言う。孔子もそうである。何度も仕官をしようとしていたが、礼の無い王を見限っては諸国を放浪し続けた。
 果たして「忠」が先か「礼」が先かは、あまり意味をなさない。この二つの関係性は同時に補完しあってこそ、それぞれの力量が発揮されるのではないだろうか。えてして現実は、社長は王様みたいな暮らしをしているのに、社員はいつも借金まみれ、と言うことも珍しくない。こんな関係では職場の士気が上がろうはずもない。有能な社員は、さっさと辞表を出して、自分を高く買ってくれる会社に行くはずだ。経営学の神様と言われたピーター・F・ドラッガーの言葉にもこうある。「どのような企業や団体であれ、トップと一般社員の給料の格差が二十倍以上ある組織は良くない」。昨今、アメリカの金融機関の社長たちの莫大な年俸や退職金を見ていると、そのような企業は決して永続しない、と確信を強くする。

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