2008年7月24日木曜日

里仁(りじん)第四-十五

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子曰、參乎、吾道一以貫之哉、曾子曰、唯、子出、門人問曰、何謂也、曾子曰、夫子之道、忠恕而已無、

子(し)曰(のたま)わく、参(しん)や、吾(わ)が道は一(いつ)以て之を貫く。曾子(そうし)曰く、唯(い)。子(し)出(い)ず。門人(もんじん)問うて曰く、何の謂(いい)ぞや。曾子曰く、夫子(ふうし)の道は、忠恕(ちゅうじょ)のみ。

先生がいわれた「参(しん)よ、わが道は一つのことで貫かれている。」曾子は「はい。」といわれた。先生が出て行かれると、門人が訊ねた、「どういう意味でしょうか」曾子はいわれた、「先生の道は忠恕のまごころだけです」
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■学ぶ者はすべて、師の心を知り尽くした弟子となれ。

 「忠恕」は、論語の肝である。意味的には「忠は、自分の内なるまごころにそむかぬこと、恕は、まごころによる他人への思いやり」を言うが、孔子は、弟子の曾子(参とは曾子のあざ名)に、そのことをすでに承知のこととして言った。また曾子も、その一つのこととは何かを質問せずに「はい。」とだけ答えた。師弟のあうんの呼吸に、未熟な弟子がそれを問うたのだ。
 自分の哲学を、いとも簡単に、さらりと言ってのけた孔子もあっぱれだが、その弟子の曾子もまた傑物であった。論語の中で、孔子と弟子達の麗しい関係が、手に取るように起想される美しいシーンの一つである。師弟の関係、上司と部下の関係も、こうありたいものである。
 昨今、会社組織の中で行われる研修をいろいろと研究しているが、「リーダーはこうあるべき…」という講座は多いが、「フォロアー(従うべき者)はこうあるべき…」という講座は少ない。師匠が一言いえば、弟子は、ああだこうだ言わず「はい」とだけ答える関係は、まさに理想の関係であろう。それは、弟子が師匠の心の内をすべて読み解いていなければ、こうはいかないからだ。
 アメリカのエリート養成の名門校の一つ、陸軍士官学校(ウエストポイント)の教育でも、もっとも重視されるのは「いかに上部の権威に従うべきか」ということだそうだ。徹底的に、新入生の時からこのことを叩き込まれるという。いわば「フォロアーシップ」をどう身に付けるかは、「リーダーシップ」をどう身に付けるか、と同義だという。従うべき心を持たないものは、素晴らしいリーダーにはなれないという哲学だ。ここから多くの卒業生が大統領にまで上り詰めているが、彼らが、軍のトップである将軍になったときも、従うべき上の権威はあった。それは大統領である。そして彼らがまた出世して大統領になったとしても、そこにはまた、従うべき上の権威があるのだ。それが「国民」である。

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